30代の失恋
結婚直前までいってて、からの失恋。
つら!
笑っちゃうくらい辛!
大好きだったのに、大好きって言ってくれたのに。
なんで借金。
自分の機嫌を自分で取れるようになりたい
褒められなくても、認められなくても、頑張っててえらいねって言われなくても、悲しまないでいられるようになりたい。
人が心配してくれたり、助けてくれたり、気遣ってくれたりしないと機嫌良くいられないって、多分良くない。
すごいね、は嫌い。すごくないから。頑張っててえらいねって言ってもらえないと、わたしを見ていてもらえないと、すぐ拗ねる。
すぐにすごく変わりたい。麻薬的に、盲信的に、一瞬で熱狂できて、わたしを変えてくれる神様を探してる。
でも、わたしは本当に大変だ。ダンスする時間を失って、今の職場に慣れよう、理解しようと努力して、今年は苦手なポジションに立たされてもなんとか順応しようとして、がんばりすぎてるくらい、一人でがんばっている。(一人で、と思っている。)
だから、大変なわたしに人はもっと気を使ってほしい。悲しませないでほしい。
いつも上機嫌でいたい。それを言うのは簡単だ。でも上機嫌でいられるはずがない。周りが理不尽だからだ。本来やる必要のない仕事まで押し付けられて、一生懸命頑張っているにもかかわらず能力以上のことを求められて、身を粉にして働いていて、大変すぎてかわいそうなのに、それをtreatして気遣って、変えたり守ったりしてくれない周りの人達。
わたしより能力が高いととても思えないのに努力不足のまま厚顔無恥に生活している周りの人達を、認める意味がわからない。わたしより楽をしている人達を許せない。そもそも許せない人達を、愛することなんてできないし、合わせて愛想笑いする必要なんかない。気付かせてやるべきだ。あなたは人からtreatされるだけの能力も技量も今持ち合わせていないんだと、気付かせてやるために、優しくしたくない。
でも、今わかっていることは、とにかく、この状態が嫌だということだ。どんな過去やいきさつがあったにせよ、今わたしは思いやりに欠ける人間になっていて、そのことが嫌だ、本当は機嫌良くいたいんだ。でも、それには少しほめられたがりすぎていて、どうにも機嫌良くなる術が分からなくなっていて、それに困っているんだ。
カウンセリングに通い始めて2年になる
タイトルの通り、カウンセリングに通い始めて、2年になる。はじめ話を聞いてもらっていた人は8か月で替わり、そこから1年4か月、次にわたしの担当になった人と話している。
わたしには明らかに困っていることがあって、それをどうにかしようとしている。きっかけは職場にいると気分が悪くなることだった。後から振り返ってみれば、職場を移ったことになる適応障害だった。
そこから、これまでの人生の困ってきたことについて紐解いて話してきた。寝るのが苦手なこと、気分の落ち込み、自傷行為や摂食障害、不安、働きすぎること、性の問題など。
いつまでカウンセリングを続けるのかは分からない。何かが前進しているように思うこともあれば、機嫌の悪いときには自分が幼い子どもの頃と1ミリも変わっていないような気もして愕然とすることもある。
でも、現状、まだ続けていくつもりではいる。ここは一般に公開されたブログで、ここに頭の中の整理をとりとめもなく書いても仕方がないとは思うけれど、そういうことを高校生の頃からしたためてきたのがこのブログだった。
わたしが感じていることはおおむね倫理的でないことも多いし、思いやりに欠けた思考が多い。それはあまり良いことではないけれど、それを書くのは自分が思いやりに欠けた行動をすることに悩んでいると自覚できているからだ。一般に公開され、自由に見られるブログで非倫理的なことを書くのは批判されるだろうけれど、倫理的かどうかは差し置いて、わたしが生きながら感じていることに、正解も間違いもないと思いたい。自己否定ばかりする自分が、そう信じて、認めることが、問題の解決には必要なことであるようにも思う。
■
ぶっ壊れたように働いて、ぶっ壊れたようにセックスしてる。
ただそれだけで2年半もの時が簡単に流れていた。
自分の人生を生きている感覚はない。ずっと、見たこともないどこかの神様のために、隠遁して禊いでいる気分。でもそれが何のためなのかは、もう忘れてしまった。
ぼんやりと、ただ盲目的に、目の前のことに必死で生きている。寝る暇も惜しんで、深夜まで働いて、訳が分からなくなって裸足で足がちぎれるくらい走ったり、歩道の植物が植えられている土に頭から突っ込んで大泣きしたり、そういう毎日を送っている。どうかしているのだろうか。自分では、そうなる思考の過程が明瞭に見えているから、全く正常に感じられてしまうところがたちが悪い。
特殊な仕事に就いた。特殊なことができるようになった。この仕事はマイノリティではあるけれど必要とする人がいて、社会貢献性は高い。
が、職場環境はブラックだ。人手が足りないばかりか、若手、中堅を育てるべきベテランがどんどん減っていく。自分の今の能力以上の仕事が求められ、神経を擦り減らし、多忙を極めている。
本来自分が生きているということのあまりの空虚さ、無意味さに気付かないでいるためにはうってつけだ。私みたいな自己犠牲型の人間は一番行ってはいけない世界。泥沼にはまって抜けられなくなる。がむしゃらに働いて、自分自身や他人に必死で認められようと努力していないと、空っぽで死んでしまうから。
この仕事は私にとって、もともと腕がある分野ではない。でも、なるべくしてこの仕事に就いたと思う。
少しでも良いものを提供するために努力が必要だから、一生懸命頑張る。諦めないで、身を粉にして働く。世間では「がんばりすぎず、余裕をもって、息を長く働けるようにした方がいい」なんて言うけれど、正直そんなことは自己肯定感を保って生きてこれたやつの言うことだと思う。
毎日、精神的に生きるか死ぬかをさまよって生きてきた人間には、日々の成果が全て。頼れるのは、自分の目に見えて、手にとれて、体で感じられる努力の成果だけ。信じられるのは、今日もこんな時間まで死ぬ思いで努力をしたと言う疲労感だけ。
しかも、客観的にはまずまずの成果が出ても、今回は運が良かっただけと考える。悪い結果になったら、自分の努力不足を呪う。
楽になんてなれない。
人生は、自分を楽しませたもん勝ちと言う。
私の人生は、見たところどんどんアブノーマルになっていく。
主人公が不在なのに夢が続き、脳が焼きマシュマロのように焦げて溶けていて、性の感覚だけが息をしている。
どうしてこうなったのだろう。
■
拝啓、ダニエル・デネット。
あなたのことを敬愛しています。
意識とは、様々なトピックが混沌と存在している脳内で、もっとも名声を得ているトピックのことです。
そして名声は、その一瞬の状態でなく、そのものに対する注目が後続することによって成立します。
後続することとは、「次に何が起きるか」ということ。
つまり意識とは、「次に何が起きるか」という後続事象を見る現象のことです。
わたしの愛しい一人称的現象、クオリア。それは細胞の反応であり、こう語るわたしに主体はないのでした。
なぜわたしはゾンビと言えないのか。
ゾンビと人間とロボットの違いをきちんと分かりたい。
わたしがわたしであるということはどういうことか。
ゾンビがゾンビであるということはどういうことか。

スウィート・ドリームズ (NTT出版ライブラリーレゾナント059)
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p.221
それは、心臓は基本的にはポンプであり、原理上、血液を傷つけないで必要なポンプ作用をする限り、心臓が何でできていてもいいのとまったく同様に、心は根本的には制御装置であり事実上は生きた脳によって実現されているが、他にこれと同じ制御機能を計算できるものがあれば、それも同様の機能をもつという考え方である。脳を実際に構成する物質、すなわち、神経細胞の化学作用、神経線維の分極におけるカルシウムの役割他のもろもろは、前述の砲弾の化学的構成と同じくらい重要でない。
p.232
再三再四論じてきたように、意識的であるということは、テレビに出ていることとは違う。テレビに出演して、数百万の人から見られたとしても、まだ、名声を手にいれたとはいえない。なぜなら、テレビに初出演してもしかるべき後続的事象が生じていないからである。同様に、脳の中のどこにも、氷床が単独で意識を生むために十分であるような領域はない。違いを生じさせるのは常に後続事象である。(つまり、次に何が起きるのか?だ。)
p.234
この類推の重要な点は、意識は、名声と同様に、機能主義的な現象であるということである。すなわち、立派な行いをする人が立派なのである。
このようなエコー、すなわち反響、往復旅行、想起、記憶の呼び起こし可能性などの重要性は、意識について書く人々によってしばしば注目されている。
本を断捨離する。
異動先が決まり、家族LINEに報告して仕事に戻り、帰り道にLINEを開いたらわたしの知り及ばぬところでわたしの引越しが決まっていた。それが金曜日。
それから2日経った日曜日、今朝不動産に行って、勢いで決めた。
本当に越すんだな。初めて働き始めてから5年住んだ部屋。さみしい。でもこれでいいのだ。全てを置いていける喜びの方が、新天地での不安より大きいことに感謝する。
というわけで帰宅してまず、本を手放すことにした。
引越しとは本を移動させることだ。そう思うくらい、前回の引越しではたくさんの大切な本をこの部屋に運んだ。今回はできるだけ身軽くしていきたい。とはいえ何を読んだか記録は残したいので、全てブクログに登録した。仕事用の本はのぞいて、趣味の本がまだ棚2段分はある。ミニマリストへの道のりは遠い。