mellowbrain’s blog

カウンセリングに通っています。ここには頭の中の整理を落としています。

はてなダイアリーブックサービスを8月31日をもって終了するということで、製本することにしました。
はてダを始めたときわたしは高校生で、毎日寝て起きてしてたら前の日と次の日の自分がつながってるか分かんない症候群にかかってたから、文章を書いて日記をつけたら少しは昨日も自分いたなぁって証拠になるかなって思い、はてなは製本できるというのでヤプログから引っ越してきた。大好きな文章を書く人がはてダ市民だったし。
最初は3か月限定で始めたけどなんだかんだで続いて、あれから8年と半年ちょっとの時間が経った。
わたしは受験して田舎から上京して大学2つ通って予備校行って就職して引っ越しして仕事して、今ここで明日も仕事なのに夜更かししちゃったなーと思いながらこれを書いている。製本の申し込みに間に合いたくて。
ブログという文化が好きだ。流行ってた。みんながやってた。ださいブログはブログって感じで知的でおしゃれなブログは日記ってかんじだった。言葉のセンスのある人っていて、素敵な日記は今でも胸がドキドキする。思ってることを文章にすること。何を切り取るか。どう演出するか。伝えようという気は全然抱けないまま、思ったことを書いてきた。8年もという感じはせず、たった8年でも文体や言いたいことに変遷あって、取捨選択、きっとなりたい方向に変わっていってるんだと思う、文章上手くなれないけど。書いて気付くことがたくさんあった。だけど大好きだった人たちの文章にはいつまで経っても追いつけない。もっかい読みたいなって思う、若き天才たち。
載せたかったけどなんとなく下書きのままになってた日記が結構あって、このさいだからさかのぼってほとんど挙げた。はてダ始めた頃の目が覚めた瞬間に今まですべての記憶を手に入れて今生まれた症候群だったわたしを成仏させるためにもはてダで一回製本するけどぜんぜん今後も書く気まんまんはてダはてブロありがとう!やめないでね!もう寝なきゃ。高校生のわたし、大学生のわたし、眠れなすぎて部屋の角の洗濯物干しがうにょうにょこっちに伸びてくる幻覚を視てたわたし、わたしは今でも寝付くの超下手だけど仕事があるから寝れるようになるから安心してよかったんだよ!

1月の日記 短歌
http://www.cinra.net/interview/2013/09/19/000000.php

ハルカ:いつも考えているのは、「怒り」と「恨み」の言葉は違うということで、「怒り」の言葉は使いますけど、「恨み」の言葉」は使いたくなくて。自分の感情を追っていくと、「恨み」には対象がいて、感情に任せて「恨み」の言葉で書く方が簡単なんですけど、その根本には「怒り」がある気がしていて、そっちを表現しなきゃいけないなと思うんです。
穂村:「恨み」だと、完全に個人的なものになりがちだけど、「怒り」だと、代弁することができますよね。
(中略)そういう決意や大きな志とリンクするには、「恨み」じゃなくて「怒り」の周波数じゃないと太刀打ちできないというか。あと、「恨み」の場合は原因がなければ発生しないけど、こういうタイプの「怒り」は世界中が幸福にならないと消えないと思います。お金持ちになって、彼氏と上手くいって、人気者になったら消えるような「怒り」は、表現者として弱いですよね。<<


怒りでも恨みでも構わないけどわたしはそうは思わなくて表現に誰かの代弁なんてはじめから想定して抽象化する必要なんかなくて、何があって今どう怒ってるとかこんな状況を恨まないでいられないってべったり血の付いた言葉の方が刺さるしそれに勝手に共感するもんだとおもうというか自分はそうだ。なぜぼくたちは広いセカイで戦い…とか言われてもわたし朝夕の寒さとすぐ怪我することとプレゼン準備が終わらなくてイライラするのとカスタマーさんとの連絡にビクビクしてるのとメールが返ってこないさみしさとしか戦ってないし。抽象化するよりむしろ生活レベルのずっと上の方に渦巻いてるぼんやりした悲しさを言葉で引きずり降ろして地に足付けさせてほしい。

だから固有名詞。固有名詞のきらびやかで毒々しい魅力。日記を書くみたいな個人の日常とそれに対する解釈をのぞきたい。


とは言え表現者が怒りや恨みからものを生みだしてるって話はすごく嬉しいから抜粋した。少なくともわたしはそういうのないと頭働かんし、人は「負の感情はすぐそっちに引きずられちゃうからできるだけ感じたり口にしたりしないようにしてるしそもそも寝たら全部忘れてスッキリ」とかゆっててそんな人間しかおらんのかって凹んだから。さわやか太郎がいれば恨みそねみ子もいてそれがワールドイズノープロブレムということが確認できて安心しました!


短歌いいよね。ほむほむ読みたいから明日の朝は池袋のジュンク堂で買い物しよう。

1月の日記 短歌
短歌の何が好きかと言われると、情景を切り取って一瞬でその瞬間に立たせるところです。このスピード感。そして、それでどうだと言うわけではなく、物語にオチを求めるわけではなく、でもその瞬間の風景や匂いや味や音や、それらに打ち当たっている感情をただ肯定しているところです。


それは短歌がより詠んでいる人間の陰を匂わせるからだと思う。まるで自分がその人の内側に忍び込んで、その目で見ているような感覚に、たった一行で連れていけるのが短歌。
というわけで、現代短歌。

冷凍都市の暮らしは熱帯夜でSummer Soulです。
大好きなcero、7月ツアーラストのZEPP行った。結構最前で踊って、Yellow Magus、Orphans、勝手に体が動くってかんじで、やっぱ最高だ。シティーポップとかHIP HOPとかエキゾ音楽とか色々言われてるけど、ceroはすごくリアルにこの西暦でやってる感あって、のはずなのに世界線がちょっとずれてるような、同じ西東京の地を踏んでるのに一生出会えない友達ってかんじがして、おしゃれで陽気でちょっとせつない。
Contemporary Tokyo Cruiseの真ん中きれいになるとこ、「いかないで光よ、わたしたちはここにいます、巻き戻しして」のとき高城さんを後ろから照らしてた光をよく覚えてる。あの時なにかに祈るみたいな気持ちだった。わたしを構成する声なき細胞たちが今ここで粉になってなくなっても構わないからどうか、って思ってたのは世の中に対してなのか誰かになのか自分になのか、思い出せないけど、
無事でいてください、あなたの痛みや悲しみなんかなくなってくださいって祈りで胸がしめつけられて初めて幸せが分かる。痛くないと気付けないなんてなぁ。
大停電の夜に、の演出でフロアもステージも全部の明かりが消えて、自分一人しかいなくなったみたいな暗闇の中握っていたもの、あれは覚えていたいけど暮らしていくうちにすぐに忘れちゃって、そのことにも気づかないで永い時が流れて、思い出だけが化石になって誰にも見つからないところで息を潜めてる。

たとえば休日にどこへ行こうと誰と会おうと、平日に帰るのがさみしいからって仕事中毒になろうと、環境が変わってどんな人の間で仕事して息して寝て食べて怒って笑ってしょうもない冗談言って過ごそうと、結局いくつになっても何も変わらないのはいつも強烈な孤独の中に取り残されてることで、こういうときは人なんだと、人を頼れば頼るほど増していく行き場の無さや遣る瀬無さによって増幅される孤独がわたしの脳味噌を爆破して、散り散りになった脳味噌の中にそれでも残ったものをきらめかせる。それまでの押し潰されそうな不安と無為感を一つ残らず拭い去って限りない安心感と全能感にたどり着かせる。不安がいつもわたしにまとわりついて離れないのは余計なものを捨て去らせて最後に残ったそれを余すことなく愛させるためなんだと思わざるを得ないくらい直感的に全幅の信頼を置けるもの、それは哲学。結局最後に残るそれが本当に好きなもので、必要で、他人に強要されなくても自分から手を伸ばす趣味。わたしまだちゃんと哲学が好きで良かった。哲学を好きと言える体力が残っていて良かった。

マグリット展

へいきました。

わたしはずっと前から涙が出るほど言葉が分からなくなりたいのです。

私の関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです。

繰り返される「言葉対イメージ」。
マグリットの描く事物はメタファーではなかった。意味の示唆ではなかった。マグリットはただイメージを描いていた。
だから人が3人いれば月は3つあるのだ。


「人間の条件」(La condition humaine 1933)

窓から見える風景を描いた1枚のキャンバスで、その向こう側の本当の風景は隠されていてこの視点からは見ることができない。
私たちは常に表象を見ているにすぎないこと。

白紙委任状」(Le blanc-seing 1965)

現実には起き得ない状態でそこにあるとしても、在り方は「白紙」のように自由でそのものに「委任」されている。

「恋人たち」(Les amants 1928)

とてもロマンティックで物語的な情景に見えた。でももしもこの絵画に描かれているのが自分だ言われた場合に湧き上がるこの不安、布を取って「こんにちはわたしです」と「言葉」をもって誰かに伝えなくちゃいけない気がするこの焦燥感、これは理解されたいという気持ちに他ならなく、それは紛れもなくアイデンティティだ。マグリットがどんな思いでこれを描いたか知らないがいかにアイデンティティを守らなくては生きていられないかということを2015年東京は国立新美術館にてわたしはぼうっと思った。アイデンティティを守ることについて語ることはわたしにはまだなんだか生臭くて、時代遅れの流行語みたいに恥ずかしくて苦手だ。アイデンティティへの嫌悪感ってなんだろう。
あれか。自分を特別視することへの否定か。


「即自的イメージ」
お皿用にかぶせる透明なほこりよけの中に、本物の食べ物(あれはチーズ?)ではなくて「(チーズらしき)食べ物を描いた絵」が入れられている。
邦題は「即自的イメージ」だけど、原題は「Image in Itself」(ほんとのほんとの原題はフランス語なのでこれはその英訳)。"in"ですよ。それであの絵。胸を打たれた。ほこりよけの存在意義に沿ったイメージがそこに入っているべきなのだ、と思ったのですがどうなんでしょう。でもこれは意味論的でマグリットっぽくないってことになるのか。ここでのイメージとはなんだ。それは食べ物?ほこりよけ?でもマグリットはパイプの絵を描いた下に「これはパイプではない」とか書く人で、これはパイプに見えるものを平面に描いた色彩であって決してパイプそのものではないとか言う人だからな。でも「これはパイプではない」という文字も記号も意味も絵の具の色彩にすぎないんですよ。もう全てがそうです。世の中全ての話し言葉はただの音声で書き言葉はただのインクのしみです。
だから言葉が分からなくなりたいんです