mellowbrain’s blog

カウンセリングに通っています。ここには頭の中の整理を落としています。

たとえば休日にどこへ行こうと誰と会おうと、平日に帰るのがさみしいからって仕事中毒になろうと、環境が変わってどんな人の間で仕事して息して寝て食べて怒って笑ってしょうもない冗談言って過ごそうと、結局いくつになっても何も変わらないのはいつも強烈な孤独の中に取り残されてることで、こういうときは人なんだと、人を頼れば頼るほど増していく行き場の無さや遣る瀬無さによって増幅される孤独がわたしの脳味噌を爆破して、散り散りになった脳味噌の中にそれでも残ったものをきらめかせる。それまでの押し潰されそうな不安と無為感を一つ残らず拭い去って限りない安心感と全能感にたどり着かせる。不安がいつもわたしにまとわりついて離れないのは余計なものを捨て去らせて最後に残ったそれを余すことなく愛させるためなんだと思わざるを得ないくらい直感的に全幅の信頼を置けるもの、それは哲学。結局最後に残るそれが本当に好きなもので、必要で、他人に強要されなくても自分から手を伸ばす趣味。わたしまだちゃんと哲学が好きで良かった。哲学を好きと言える体力が残っていて良かった。

マグリット展

へいきました。

わたしはずっと前から涙が出るほど言葉が分からなくなりたいのです。

私の関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです。

繰り返される「言葉対イメージ」。
マグリットの描く事物はメタファーではなかった。意味の示唆ではなかった。マグリットはただイメージを描いていた。
だから人が3人いれば月は3つあるのだ。


「人間の条件」(La condition humaine 1933)

窓から見える風景を描いた1枚のキャンバスで、その向こう側の本当の風景は隠されていてこの視点からは見ることができない。
私たちは常に表象を見ているにすぎないこと。

白紙委任状」(Le blanc-seing 1965)

現実には起き得ない状態でそこにあるとしても、在り方は「白紙」のように自由でそのものに「委任」されている。

「恋人たち」(Les amants 1928)

とてもロマンティックで物語的な情景に見えた。でももしもこの絵画に描かれているのが自分だ言われた場合に湧き上がるこの不安、布を取って「こんにちはわたしです」と「言葉」をもって誰かに伝えなくちゃいけない気がするこの焦燥感、これは理解されたいという気持ちに他ならなく、それは紛れもなくアイデンティティだ。マグリットがどんな思いでこれを描いたか知らないがいかにアイデンティティを守らなくては生きていられないかということを2015年東京は国立新美術館にてわたしはぼうっと思った。アイデンティティを守ることについて語ることはわたしにはまだなんだか生臭くて、時代遅れの流行語みたいに恥ずかしくて苦手だ。アイデンティティへの嫌悪感ってなんだろう。
あれか。自分を特別視することへの否定か。


「即自的イメージ」
お皿用にかぶせる透明なほこりよけの中に、本物の食べ物(あれはチーズ?)ではなくて「(チーズらしき)食べ物を描いた絵」が入れられている。
邦題は「即自的イメージ」だけど、原題は「Image in Itself」(ほんとのほんとの原題はフランス語なのでこれはその英訳)。"in"ですよ。それであの絵。胸を打たれた。ほこりよけの存在意義に沿ったイメージがそこに入っているべきなのだ、と思ったのですがどうなんでしょう。でもこれは意味論的でマグリットっぽくないってことになるのか。ここでのイメージとはなんだ。それは食べ物?ほこりよけ?でもマグリットはパイプの絵を描いた下に「これはパイプではない」とか書く人で、これはパイプに見えるものを平面に描いた色彩であって決してパイプそのものではないとか言う人だからな。でも「これはパイプではない」という文字も記号も意味も絵の具の色彩にすぎないんですよ。もう全てがそうです。世の中全ての話し言葉はただの音声で書き言葉はただのインクのしみです。
だから言葉が分からなくなりたいんです

休みの日やらんといかんことはいっぱいあるけどひとりでいるのは全然苦。こんなに現場派になるなんてってくらいライブに行って、東京中低域も観れたし、スターパインズカフェでは歌い終わった戸川純がふつーにその辺の席で煙草吸いながらぼーっとしてる背中目の前で見れたし、殺人鬼フジコの衝動いけて新垣里沙の肩は細くて可愛かったし、ひなフェス誘ってもらえてカントリーガールズさんの今の雰囲気も知れた。ハロプロの現場、今一番ぶちあがってるの大器晩成かな?あれはやばい。モーニング娘。がわがまま気のまま愛のジョーク出したときくらい盛り上がってた。っっっってそういうの観に行くのはひとりで全然苦じゃないや。。って感じで、来月は!大槻ケンヂ戸川純もまさかすぎる谷山浩子がでるオールナイトライブチケ取れた!やった!6月は演劇2個くらい観れる予感。やばいな。楽しいな。最近いつも首を絞められている感覚で時々苦しくて喋れなくなる以外はすごく楽しいなぁ!

三月お誕生日、わたしは朝から餃子を作らんとして爪を割ったといったけれど本当はあの日の朝お風呂で剃刀がさつくりと音もなく爪の半分まで割り込んだのです。餃子は失敗して、ハンバーグも失敗して、料理全然上手くなんない。君が美味しいという料理はだいたいウェイパァさん。
本当は。本当は。

初めて行った友達の結婚式も三次会にまで流れ込めば知らないつまらん奴がいっぱいで、つまらんつまらん言ってるわたしがわたしをつまんなくしてんのは分かってるけどそうじゃないんだ。
疲れて帰って寝たら何かが悲しくて生まれたような気持ちで目が覚めた。
それで二日酔いでグレープフルーツジュース飲みながら目の前でカツレツランチ食べてる友達のおとといのパーティーの話聞いてバレンタイン企画?なんだそれしてる時カツレツとグレフルとフォークのカチャキチャいう音が核融合起こして


わたしは悟りました。


人が嫌いだ、人はクズだと思っちゃう気持ちをどこまで昇華できるか。エネルギーに変えられるか。円滑に生きるためにどれだけ活用できるか。合わせてないで自分で選ぶこと。確固たる自分の世界はよだれが出るほど魅了してきて楽しくて美しくてやりたいこと知りたいことだらけで忙しいので、リアなとこに居合わしてる人の暮らし方や楽しいと感じることと合わなくても、ぜんぜんひがみそねむ必要はなくて、むしろ自分の好きなことの輪郭が濃く見えるようになるから喜ばしさと痛みでいっぱいもっと会ってください。みなさんわたしと出会ってください。わたしがこんなに愛しく感じるものの良さに気づけない誰かの感性の乏しさや想像力の無さを悲しむにせよ、わたしはわたしの感性に自信もててきた、最近なんか。手放し走行みたいな気分。それは逃げるが勝ちとも言うけど何にって少なくともわたしのEmみたいな気分には勝てる。それでいいじゃんてかそこしかないじゃん。
戦略名人と同じ土俵に立たない。

12月にインフルなって人と音信途切れて毛布の中でうにうにしてたらいま死んだらわたし馬鹿みたいだなって脳がぱっくり理解した。いつまでも誰かに幻をもらってもいられないのだ。わたし可愛いウサギちゃんじゃないし。
それでつまらん夜はもうやめたというようにつまらん夜を徹底的にやめることに決めて、CD買ってライブ行って握手してギターを始めた。そしたらすぐ弾けるようになった。弾けるっつったって大したもん弾けんけどとりあえず2時間で今夜はブギーバックは弾けてFはフモッ!て鳴るけどなんとなく押さえられはして希望的感触。
で1ヶ月もせんうちに初心者向け曲レパートリー増えたしせーはのコツ掴めてきたしきゅるきゅるは簡単コードで弾き語りできて楽しくなる。いろんな好きな曲を再現できる。気持ちよくなる!最高だぜ〜。もう酔っぱらって自転車にでも乗りたいね〜。と音楽好き気取りつつつつ、別の夜踊る。比喩じゃなく物理的に踊る。肉体的に。フ〜!って。やってる。平日残業しててもその後ぜんぜん踊れるね。ライブ会場だろうとどっかのスタジオだろうと音に合わせて無心で踊るのは気持ちよくてほとんどイキそうになります。そうわたしの今年の目標はアドレナリンを出すこと。ドーパミン?どっちでもいいや。アドレナリ二ストだかドーパミ二ストだかになるのが今年の常胸であり宗教であり目標的信仰。悩む暇があれば行動してた方がやっぱ結果気持ちいいもんもらえる。読みたい本読むのも新しい音楽聴くのもどっか行くのもなんか書くのも気持ちいい。ってもう気持ちよさでしか行動してない。猿だね。
猿でした。