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マグリット展

へいきました。

わたしはずっと前から涙が出るほど言葉が分からなくなりたいのです。

私の関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです。

繰り返される「言葉対イメージ」。
マグリットの描く事物はメタファーではなかった。意味の示唆ではなかった。マグリットはただイメージを描いていた。
だから人が3人いれば月は3つあるのだ。


「人間の条件」(La condition humaine 1933)

窓から見える風景を描いた1枚のキャンバスで、その向こう側の本当の風景は隠されていてこの視点からは見ることができない。
私たちは常に表象を見ているにすぎないこと。

白紙委任状」(Le blanc-seing 1965)

現実には起き得ない状態でそこにあるとしても、在り方は「白紙」のように自由でそのものに「委任」されている。

「恋人たち」(Les amants 1928)

とてもロマンティックで物語的な情景に見えた。でももしもこの絵画に描かれているのが自分だ言われた場合に湧き上がるこの不安、布を取って「こんにちはわたしです」と「言葉」をもって誰かに伝えなくちゃいけない気がするこの焦燥感、これは理解されたいという気持ちに他ならなく、それは紛れもなくアイデンティティだ。マグリットがどんな思いでこれを描いたか知らないがいかにアイデンティティを守らなくては生きていられないかということを2015年東京は国立新美術館にてわたしはぼうっと思った。アイデンティティを守ることについて語ることはわたしにはまだなんだか生臭くて、時代遅れの流行語みたいに恥ずかしくて苦手だ。アイデンティティへの嫌悪感ってなんだろう。
あれか。自分を特別視することへの否定か。


「即自的イメージ」
お皿用にかぶせる透明なほこりよけの中に、本物の食べ物(あれはチーズ?)ではなくて「(チーズらしき)食べ物を描いた絵」が入れられている。
邦題は「即自的イメージ」だけど、原題は「Image in Itself」(ほんとのほんとの原題はフランス語なのでこれはその英訳)。"in"ですよ。それであの絵。胸を打たれた。ほこりよけの存在意義に沿ったイメージがそこに入っているべきなのだ、と思ったのですがどうなんでしょう。でもこれは意味論的でマグリットっぽくないってことになるのか。ここでのイメージとはなんだ。それは食べ物?ほこりよけ?でもマグリットはパイプの絵を描いた下に「これはパイプではない」とか書く人で、これはパイプに見えるものを平面に描いた色彩であって決してパイプそのものではないとか言う人だからな。でも「これはパイプではない」という文字も記号も意味も絵の具の色彩にすぎないんですよ。もう全てがそうです。世の中全ての話し言葉はただの音声で書き言葉はただのインクのしみです。
だから言葉が分からなくなりたいんです