殺人の欲求はつまり顔への欲求である。また、慈悲を喚起する数多の顔に対して出来る最大の奉仕は、自分の肉体を食物として差し出せることである。しかし人が人の顔を見るときそれを食物として認識できないのは、顔に<私はパンではない><どうか命は>という意思が浮かんでいるからである。

生きてることは幸せなことなんだって。ナチスがユダヤ人を殺すか殺さないか論議してる間にも、その向こうでギリギリの生活を必死で生きながらえている彼らの日々の気配が涙が出るほど愛しく尊く思われるんだって。
たとえば外が怖くて出られなくなって家で何をするでもなくただ今のままではだめだってことは分かってるんだ。と悶々としていても、死ぬ程腹が減ったら飯は食う。ちゃっかりウンコもする。そうやってさもしく今を繋いでいくだけの姿を厭っていても、それを続けているということは認めていることと同じだよね。でも、どんな形であれ痛いことも苦しいことも感じてる瞬間が生きてることなんだって。言葉にしてしまえば陳腐だけど。
かと言って私は人間辞めないでいることに明確な理由や目的があるじゃないよ。人生の長期的な目標を常に胸に刻んで生きてる人なんていないと思うし。だって毎朝毎朝「さあ今日も幸せな人生だったと最期に思えるような人生のうちの一日にしよう!幸せになろう!」って思ってる人がいるなんてきれい事としか思えないよなあ。大体「夏までに免許取っとかなきゃなあ」とか「大学中に留学しよう」とか「ぜってー外資系に就職するぜ」とか「生活費稼ごう!」とか「試験受かんなきゃやばい!」とかそういう短期的な目標を渡り歩いて時間を生きてくんだと思う。それで普通だと思う。普通が良いとか悪いとかは別にして。


それから、今を繋いでるだけの人生を厭いながらもとりあえず辞めないでいるだけの厚顔無恥さとか、図々しさがとっても必要だと思う。今今って言いながら結局生きてるのは今だけじゃないよね。未来に対してもそう思えるようになればいい。