攻殻機動隊ARISEborder:4 Ghost Stands Aloneを観てきた。ネタバレ大注意。
しかも9月6日公開に先駆けて公開前夜祭border:3,4イッキ見しちゃおうぜ祭りで。やばい。いく。とか思って早々にポチって仕事帰りのバルト9してきた。いえーい!
哲学の心身問題が好きなので、攻殻機動隊シリーズを愛してきて、ARISEによるキャラデザ全変えにも1ミリも揺らぐことなく相変わらず好きでした。


4部完結のARISEシリーズは、以前のテレビシリーズよりさらに、「人間性の根拠に何を選ぶか/どの視点から定義するか」を4作通して、また4作別の視点から切り開いて見せてくれた作品だと思った。

鑑賞特典のMANUAL BOOK 04から抜粋。

「個」は、身体に由来するのか、それとも記憶に由来するのか、それとももっと深いところに、不可侵の「ゴースト」がありそれが保証してくれるものなのか。その極限は何か。人間を越えたポストヒューマンたちが新しく作りだす、ポストソサイアティの像をこそ、本作は描こうとしている。


観てる最中は、突然オズの魔法使いが関連してきたり、そもそも名前がブリンダジュニアな所にもウィキッドじゃねーかみたいなことばっか考えてたんだけど、つまりオズ作品が好きなのもこのへんの人間性の話で切り取れる話だったからかと気付いた。ただアメリカのゴールドラッシュ時代の人間の根無し草的感傷が好きなだけじゃなかったのか。

で話は戻り、人間性とは身体に宿るのか、記憶に宿るのか、意識にあるのか、感情にあるのか。
愛は一体どこで感じているのか?愛は細胞が感じている。


わたしたちはどこにも個がなく、細胞活動という意味で存在するものは全て同じだと思う。人も犬もサカナも水も木も空気も鉄もプラスチックも、分解されて同じレベルにある。自由意志という話題は遠い遠い表面のものでしかないような気がする。
わたしの肉体という位置にいるからわたしは語らされているだけで、別の位置にいればそれがわたしだし、そもそも別の位置に移動しても持続されるゴーストはない。
わたしたちは決定論の中にいて、それは時に生きることに意味がなくなると悲観されがちだけど、別にそうではなくて、クオリアを感じることまで無意味に思う必要はないと思うんだよ。つまりわたしは生きる意味を、クオリアを感じることに根拠付けているのか。
そうなのか。
なんか最近そういうことをよく考えます。
しかし平日の夜から攻殻ガチヲタが犇めいてると思うと萌えるね。