身近な人が亡くなった。でもあまりに唐突すぎだしついこないだまで会ってたのもあるから全然実感わかなくて、お通夜に出たら実感わくかなあと思ったけれどたくさんの人の群れの中に並んでお経をきいたり見たことないプライベートな時間の姿が写った遺影を見つめてお焼香をあげたりしても全然実感わかなくて、むしろ後ろから「○○!所作がなってない!」ってその人に怒られそうだからちゃんとしなきゃ…みたいな気持ちで緊張してて、そこには知らない大人がたくさんいるし、まるでなんかのイベントの儀式に参加してるみたいだった。それで今にいたってもまだ全然のみこめてなくて、しばらく見ないけどちょっとしたらまたその辺にシャッキリ現れるような気がしていて、なんだかうまくかなしめなくてかなしいってことにもきづけない。ぜんぜん、喪失できていない。

そのうちに3月になり、25才になり、唐突に「なんだかもったいない」という言葉が脳みそにビシャーーン!と降ってきて当たる。「いつか死ぬんだからなんか今がもったいない」って言葉の意味が初めて本当に分かる。それはあのお通夜の現実的な死とは全く別次元の死で、でも死は死なんだからおんなじのはずで、なんか混乱する。とにかくもったいないことは事実で、行ってみたいところややってみたいことはどんどんやらなきゃと思う。人に会わなきゃ。消費しなきゃ。消費という言葉が今すごく当てはまる。もっとオープンマインドで生きるべきだったのか。それは厳密には対外的という意味じゃなくて自分の好きなことに対してもっと心開くべきという意味で、嫌いでも好きでもいいからとにかく動けってこと?死は孤独とか言うけど死んだことないから知らないけど、でも生はたしかに孤独で、だから気持ちや文字や知ることや考えることをいっぱい消費しないと、もったいないまま消えていく自分の生命活動があまりにも不憫でなみだでる。わたし結局なにやってんだよって思っちゃって何者にもなれないで、どこへもいけないで、変わってない、変わってないかな?いや、状況かわっても自分は変わってないや…。え、つら!だからなんかもおおお、すりへんなきゃってくやしくなってあせって、なんでがんばってもがんばってもみんないつもずっと先でキラキラしてんだよバカ!!