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べんきょうしてることのはなし
人のもの何にも言わずに使っちゃだめとか、人が話してる時に割り込んじゃいけないとか、そういうときはちゃんと確認をとることが必要。っていう、上手い付き合いをするための方法をいちいち指導するのは簡単だし、それでその場はできる。だけどそれが般化しないのは、想像力などの生理的な理由が根本にはあれど、つまりその行動、さっきやった「ちゃんと確認をとる」っていうことの向こうに、もっと高次の、「その向こう側に相手がいてその相手にも意志があるから」っていうの、その高次の部分が理解できないとそりゃ般化できない。むしろわたしたちがしぜんにそういう気遣い行動できてるのって幼少期から成長するにつれてだんだん理解して社会性身につけたからであって。でもそこの獲得のむつかしさが困難の核になっているひとたちは、何をもって般化していけるんだろう。手動的に、「あるく時は右足をだして、つぎに左足をだして」っていうふうに、「だれかにものをかりるときはかしてという」ってアナログで身に付けてくっていう方法がある。それはそのとおりで効果的。正しい。ただ、そういう人と付き合えば付き合うほど、あー介入多すぎてるなってやりながら反省してる。めざすところは自立であって、そのために、これは手を出しすぎかな、でもちょっと進まないから促さざるをえない・・・とか、なやんでる。つまりしえんのありかたになやんでる。それとも、これでいいのか?こうやってスキルアップの行動をなんどもくりかえして経験してくことで、アナログにせよ、「相手の意志を考える」とかそんな理解にまではいかないかもしれないにせよ、いつかできるようになるのか。わからない、、、。どこまでもとめていいのか、高いとこまでもとめすぎてるのかなあ。もうちょっとプロフィール理解したい。それでいつも声のかけかたになやむ。情報過多にならず、自発性をうながす言葉かけ。極力すくないことばで伝える、待つ、キャッチする、ほかの人のキャッチを促す、とかを念頭に。あんまり耳元でわあわあ言われてもうるさいだけだし。支援の量は感覚でおぼえるものだって。だからこないだのあの感覚、あ、これだっておもったあれ、あれ信じる。経験の回数も大切だからこの言葉かけはこれはこれでいいんだっておもったやつ。
あと、距離問題。年頃の人ってやっぱそのへんむつかしい。べたべたするのは年齢的におかしいし、でもキャッチしようとすればするほど距離がちかづいちゃう。あんなちかづいたらだいがくせいのおんなのこは好きにならせちゃってとうぜんでしょ、よくない。