生きていても赦されたい。だから祈る。だから考える。どんなに祈ったところで、わたしはわたしのため以外に生きることができない。わたしがわたしだからだ。
どんなに苦しくても、わたしは切実に、わたしでしかないからだ。



レヴィナスの他者論が好きだ。レヴィナスは生きている人にやさしい。共に生きてきたのに共に死ぬことのない愛する人を失くし、蘇らない死者の肉を前にして、それでも生きている自分を赦してほしい、赦されたい。こういう思いを抱えて、それでも生きていくにはどうすればいいのか。



カルネアデスの舟板という有名な問答があるが、そこでは利己主義と利他主義という2つの倫理について問われている。
人を犠牲にして自分が生き残るか、自分が犠牲になって人を生かすか。
しかし後者の利他主義も、人を助けることで自己満足を得ているから結局利己主義にすぎないじゃないかというのは定説だ。


レヴィナスの倫理において、利己主義は利他主義によって乗り越えられるものではない。利己主義を生きることが、利他的なるものを養うことになるから、乗り越えられる。なぜここに至るかにレヴィナスらしさがありそこがカタルシスで、長くなるけどがんばって説明したい。わたしの経験を交えて書いてみたいと思う。


レヴィナスは、他者の「顔」を重視する。わたしはこれが好きだ。わたしは電車が苦手だが、その感覚を説明すると、知らない人間の顔がいくつもいくつも視界に入り込んできて、気分が悪くなり耐えられなくなるからだ。
顔が明らかに何かを訴えている。言葉はないが無言ではない。それらは無言のうちにいくつもの主張や欲求を宿して、知らず知らずのうちに発している。
わたしはその図々しさに、自分も人間だということ含めた上で敢えて言うが、人が生きるという厚かましさに耐えることができないのだ。
それはむしろ自分がのうのうと生きているという厚かましさへの羞恥を、人全般にすり替えて人を憎むことで、和らげているのかもしれない。


少し話が飛躍するが、なぜ人を殺してはいけないのか。なぜ人を食べてはいけないのか。人間の不思議なところは、殺人を犯すということではなく、人を殺せるのに殺さないということの方だ。
これについてレヴィナスは言う。人が人を殺さないのは、他者の顔が「わたしを、殺すな」と語りかけるからだ。人が人を食べないのは、他者の顔が「わたしはパンではない」と訴えるからだ。
顔は常に問いかける。他者のまなざしはわたしの生を見つけ出して突き刺す。顔の問いかけによって生を実感させられたわたしは、答えなければならない。わたしとは何者であるか、わたしは何のために生きているのかを語り返さなければならない。それを行う力が、わたしには足りないのである。多くの顔に晒されて、己が生きているという羞恥をまざまざと実感させられて、そのふがいなさと遣る瀬なさに、体から力が抜け、ただ震撼し、謝り、消え入ろうとすることしかできない。
こんなままで生きているのは赦されないと思い、しかし消えることもできない生の狭間で苦渋を噛みしめるばかりである。


レヴィナスはこう考えた。他者の顔の問いかけに対し、「私」と答える。私とは肉体である。つまり「私」と答えることによって、私は受肉するのである。
何のために生きるのかという問いかけに対して「私」という肉体を指し示すことで、「これ(は食べ物である)」と差し出すことができる。
わたしが受肉することで初めて、何のために生きるのかという問いに答えることができる。

レヴィナスの倫理においては、肉体の次元こそが重要である。いまや、「他者の本質的な悲惨に答えうること、私を資源として発見すること」によって、私はエゴイズムを脱することになる。自らのために養う肉体が、他者のための肉体になるからである。

だからこそ、「利己主義を生きることが、利他的なるものを養うことになる」につながるのだ。

生きることで、生きていても赦される。
自分を肉体として差し出すこと。わたしはここに強烈な断罪と赦しを感じる。