我思う、ゆえに我あり」という言葉が、成立する前に、必要な大前提がひとつ欠けている。それは「考えるものは全て存在する」。


「・・私が『私は考える、故に私は在る』という命題はすべての命題のうち、順序正しく哲学する誰れもが出会う第一の最も確実な命題であると言ったとき、だからといって、その命題の前に『思惟とは何であるか』『存在とは何であるか』『確実性とは何か』とか同様に『考えるものが存在しないことはありえない』などということを知っておかねばならないことを否定したのではなかった。しかしこれはこの上なく単純な概念であり、それだけでは存在するいかなる事物の知識も与えないので数え上げる必要はない、と考えた。」(『哲学原理』)


「・・『私は考える、故に私は在る』という結論の前に『すべて考えるものはある』という大前提を知ることが可能である。なぜなら、実際この大前提は私の結論に先立ち、私の結論は大前提に基づくのだから。… … 大前提は暗黙のうちに(implicite)常に前提されており先行しているのである。しかしだからと言って、いつもはっきりと顕在的に(explicite) 、それが先行すると認識しているわけではなく、私は私の結論を先に知る。なぜなら、『私は考える、故に私は在る』といった、私のうちに経験するものについてのみ私は注意を向けるのであり、そのようには『すべて考えるものは在る』という一般的知識(notiogeneralis)に注意は向けないのである。なぜなら…… われわれはこれら命題を個別的なものから切り離さないで、それらを個別的なものにおいて考察するからである(『Burmanとの対話』)