哲学はきれいごとじゃない

わたしは絶対的に主体になれない。わたしのすべては環境によって作られている。だけど、みんな生きる喜びを得たいんだよ。ああなんだか涙が出てきた。みんな生きたい。本当は喜んで生きたい。この感情がシステムだとしても、私は生かされていてどんなに欲しても絶対的に主体にはなれないとしても、生きる意味がなくても、それでも生きたい、生の実感がほしい。
そのひとは一生懸命喋っていて、それは私は誰に喋らされてるの?っていってるようでせつない





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学祭はぶじおわり、四年のくせにふつーに出て飲み会とかも参加して青春のにおい嗅いじゃったりしたけど、でも青春謳歌組にはいつもどおり距離を感じてたりして、だれかの「学祭ってたのしいね」っていうボイスがせつなかったり輝いてたりしてた。四年の発表に後輩が泣いてて、おわわわっておもった。でもわたしは学年ほんとは違うから、なんかちがうかんじなんだけど。



まあそんなかんじでサークルもなくなったし今からはまじで卒論執筆ってことで、卒論合宿があった。
ていうか、ていうか友達が結婚する。それで結婚の話でもちきりになってずっとみんな恋愛の話してた。現実におきるんだよけっこんて。



てか哲学科なんだったわたし、わすれてた。議論とかやってひさしぶりに思い出した。ふかくにも感動した。他人の卒論発表は、ここに心が揺れるの分かってくれる?って必死で訴えられてるかんじがする。議論それぞれにカタルシスがあるんだよ。たとえばみんなで集まって、それぞれ好きなアニメの良いところを泣けるよねー!って話し合ってるみたいなって言ったら例えがアレだけど笑
発表やりながら、まあいろいろ考えた。だいぶ煮詰めてるねって言われてうれしかった。あと思ってもない新しい発見があった。結論くつがえされる、やばい、考えろ。
関係ないけど、決定論、独我論、人間機械論だの、あいかわらずわたしはこういう乱暴な主張が落ち着くっす。お前はなにも感じちゃいけないとか、お前は何を感じても無駄だ、みたいな、強い自己否定みたいなのを自分の中に感じてしまうけど。もう最近人とうまくしゃべれないし、猜疑心いっぱいで生きてる、それが表われてる。なんだっけ懐かしい、わたしはみだし者が好きだった。一人で行動してた。そういうのをふいに思い出す。まあいいや閑話休題


こないだは芸術がもうわからないって書いたけど、それが今日急にわかったんだよ。とつぜんスパーン!って見えた。芸術は自己保存と関わりがないんだ。芸術の良さに触れて心が躍動してる状態を保ち続けるのはむつかしい。日常は粗悪だし習慣をこなすだけで忙しくて解き放たれた自由の感覚なんてすぐ忘れちゃう。それでもすこしでも長く忘れないように努力しつづけることが大事で、だから芸術家はすごい。だから毎日練習してるお姉ちゃんもすごい。やっとわかった。ってこんなはなししてもつたわんないのかな


それでその卒論の内容のせいでなんだかすごく生を実感して、そんな心が躍動してる状態で次の人の発表を聞いていて、ぐっとなってしまってた。平気にふつうにして話しているのに、それはほんとうはそのひとの人生において考えないと進めないくらいに深刻で、その顔からはわからないところで必死でもがいてる感じが伝わってきた。それが冒頭の話。
世界の無関心に心を開くこと、それが不条理を生きるということ。















しかし聞いてて思ったけど哲学科って結局無駄なこと考えてる。これは入学したときから教授たちにさんざん言われてきたけど、それ考えてどうなんの?ってじっさい思うもん。とても楽しいけど。