外界へのノスタルジィがわたしをコントロールするのです

草津に一泊してきた。
メンバーは美智と、美智の友人3名。うち2名は初対面だったけど、何のフラグも期待されていなかったので、てか只のアニヲタ集団なので、全面的に妄想欲望あねいもうと嫁発言オープンの方向でもにょもにょコミュニケーション。いじられ役男子がリトルバスターズのクッションカバーとefのバスタオル体に巻きつけて「萌ええぇぇぇーーッ」てお前車内ではせめて自重してくれ他人のふりしたいけど椅子向かい合ってるから同類と思われるうううういやああああと思うような人たちの中。しかし自分もいつの間にか浴衣はやっぱり幼女が最強とか腰から絶対領域に掛けて広がるミニスカ+ふとももの夢の三角形について語っていた。人間の出口・・・脱出\(^q^)/


お風呂二回入れた。町中硫黄の匂い。大好き。夜中の四時に一人で入りにいったときはちょっと怖かったけど女湯も男湯も独り占め(上の空間が繋がってる)。

メンバーをずっと見ていて人の観察は興味深かった。お山の大将がしたい人とか、横でひっそりとでも存在感を放つ人とか、あとこの人同性からもてるけど(キャラ的に)客観的にしんどい・・・!とかいろいろ思った。ネゲロかんべん^^わたしは人目にどういう風に映っているんだろう。だいたい分かる気がする。関係性とか距離とかで。そのくらいの能力はある。
人の人生の、もしくは世の中というお話の脇役登場人物という感覚が抜けない。行動の多くが自分が参加する型だから当たり前なんだけど。なにか自分発信したときの、なんかあの茶番な感じがするのはなんでなの?



蟻の話を聞いたことがある。確かな数字は忘れたけど、蟻の集団の中で一匹の女王蟻がいて、その下にいる働き蟻達はしばらく時間が経ってくうちにそれぞれの役割が分かれ始める。何割かは食糧を探す仕事、何割かはそれを運ぶ仕事、何割かは巣で子育てをする仕事など、でもそれら働き蟻が8割だとしたら、残りの2割は怠け蟻になる。どの集団でもそう。その2割の怠け蟻だけを集めてひとつの集団を作ったとしたら、その中でまた8割が働き蟻に、2割が怠け蟻になる。もともと怠けていた蟻なのに、集団の中で比率的に自分の役割を見出すのだそうだ。それと同じことが、教室や、団体や、友だちの輪の中で起きている。自分の役割を見出す。
でもその時、自分の役割が客観的に比率的にバランスをとったからだということは、決められてはいないはずだ。人は自由に行動を選択できる。主観的にはそう思っている。ここでボケるのも突っ込むのも仕切るのも自分のタイミングで自分の方法でやってると思ってる。だけど数字的には、だいたいどの団体でも役割で分けた比率は大して変わらない。ふしぎだ。そこに個性はあるのか?まず行動に自由はあるのか。同一原因同一結果とかそう意味ではなくて、発想や思想のオリジナリティって意味の自由は確かにあるのかな。


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そんなこんなで夕方に帰ってきて、買ってきたヨーグルトを舐めながらうたた寝。そういえば夜勤明けでそのまま旅行にいってそこでも遅くに仮眠をとったくらいだったから36時間くらい起きてた。四月の頭に風邪を引いてからヨーグルトばかり食べていたせいか、二日食べないだけで体にヨーグルトが欠乏してるような気がしてならない。依存的。そして「すべてがFになる」を読み終わった。新感覚。また書く。本を読むと自分の周りに静けさが帰ってきた感じがする。感じ感じって、結局頭の中のことしか言えないんだけど。確かなことなんて何もいえねーよ。

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性欲に困ってます誰か助けてください。