彼岸過迄

僕は、自分の気分を変えるためわざと彼女に何時頃嫁に行く積かと聞いた。彼女はもう直に行くのだと答えた。
「然しまだ極った訳じゃないんだろう」
「いいえ、もう極ったの」
彼女は明らかに答えた。今まで自分の安心を得る最後の手段として、一日も早く彼女の縁談が纏まれば好いがと念じていた僕の心臓は、この答えと共にどきんと音のする浪を打った。
そうして毛穴から這い出す様な膏汗が、背中と腋の下を不意に襲った。千代子は文庫を抱いて立ち上がった。障子を開けるとき、上から僕を見下ろして、「嘘よ」と一口判切云い切ったまま、自分の部屋の方へ出て行った。
(中略)僕は今まで気が付かずに彼女を愛していたのかも知れなかった。或は彼女が気が付かないうちに僕を愛していたのかも知れなかった。―――僕は自分という正体が、それ程解り悪い怖いものなのだろうかと考えて、しばらく呆然としていた。